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緑トマト・黄トマト・赤トマト

数ある特技の中のひとつではありますが、僕は料理が得意です。やばいぐらいに。

何を隠そう、今まであんまり人に言ったことは無いんですが、僕の実家は知る人ぞ知る高級フランスレストランです。
あんまり人に言わんといてください。隠しといてください。フィクションなので。

幼い頃から、それはそれは血のにじむような修行を積んできました。
僕の料理の腕前がメキメキとあがることは、火を見るよりも明らかなのです。フィクションですが。

得意料理は冷奴。冷奴にはちょいと自信がありますよ。
僕が創り出す冷奴には豆腐がてんこ盛り。まさに豆腐100%です。
余計なものはいりません。豆腐とワインにゃ旅をさせちゃあいけません。

冷奴は料理と呼べるのかどうなのか。
そうそう。そういう疑問を浮かべる人もいるでしょう。

豆腐は大豆の加工品ですから、ぎりぎり料理と呼んでもいいような気がします。
そりゃー、僕が冷奴を作るときはものすごいこだわりをみせますよ。

にがりとか、大豆とか、水とかに。
そりゃー、すごいにがり、すごい大豆、すごい水を使って、作られている豆腐をチョイスし購入します。コンビニで。

そんなこんなで、料理と呼んでもいいような気がするんですよ。
今後、街中で冷奴を見る機会があったら、力一杯、呼んであげてみてください。

「料理!」と。きっと、彼も本望でしょう。

ではでは、冷やしトマトは料理と呼べるのかどうなのか。
鉢に植えられたトマトが、至高のサラダであることは周知の事実。
「トマトはサラダの材料だろう!」なんてちんけな台詞は、僕の心には響かないのです。

漆黒の世界の中で、僕の心に響く唯一の言葉といえば。
冷やしトマトに対してかけられる、「料理!」という魂の叫びにままならないのです。

どんな結果にも原因があるように。 どんなものにも材料があるのです。
それが完成なのか材料なのかの判断はさじ加減。
その人の心持ちひとつです。

トマトはサラダの材料かもしれない。
サラダは人体の材料かもしれない。
人は組織の材料かもしれない。
組織は社会の材料かもしれない。
社会は世界の材料かもしれない。

結局は世界を構成する材料の、どこに線を引くかだと思うわけです。さじ加減にて。
どこまでを材料だと思い、どこからを完成と思うか。さじ加減にて。

完成は何のために存在するのか。完成することに意味はあるのか。
そんなことをかれこれ考えていると、材料が完成を作っているのではなく、完成が材料を支配している。
原因が結果を生み出しているのではなく、結果が原因を支配している。
うまくいえないですけど、そんな不思議な気分に陥るのです。

そんな不思議な気分の中でも、冷奴のおいしさは、まぎれもない事実。